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2012年10月7日 礼拝メッセージ

「神を神として生きる」

使徒行伝4:32-5:11

山口紀子伝道師
  

 原始教会が「誰一人自分の持ち物だと主張する事なく、

一切の物を共有していた。」

という事にまず私達は驚きます。

しかしそれ自体が「教会」の目的ではなく

「使徒たちは主イエスの復活について、

非常に力強くあかしをした。」(4:33)とあるように、

これが復活の証しである事こそ重要です。



 「心と思い」がひとつにされた、

その結果が持ち物の共有に現れ、持ち物だけではなく、

主から受けた恵みと祝福全てを共有したのです。

またこの「共有」は全員・強制ではありません。

あくまでも信仰における交わりは各自の意志に基づく

自由な判断と決断のもとにありました。



 それにしても財産を差し出すとは

決して簡単な事ではありません。

人間の現実をルカは後半で描きます。



 アナニヤとサッピラ夫妻は相談して地所を売り、

そのお金をささげました。

しかしそれは一部であったのに

全額であるかのように偽りました。

この事で二人は命まで落とします。

これは聖霊を欺き、神を欺いた罪だったからです。

そのくらいで?と思います。

そこには自分の物差しで神をはかる心があります。



 パウロはロマ書1:18-3:20で全ての人が

神の前に有罪である事を論証します。

その最後の言葉は「彼らの目の前には、

神に対する恐れがない」(3:18)。

神という絶対者に対する畏怖がない。

神を神としない。それが罪なのです。

ルカは5:11で初めて「教会」という言葉を使います。

ペンテコステの日ではなく、ここで。

それには諸説ありますが、

「みな非常なおそれを感じた。」

ここに、答えのひとつがあるように思います。

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